まだまだけつがあおいごぼはん

未曽有の災害の状況が進行中ですが、お前は考えているのかと問われれば、絶えず考えています。いくら考えてもわかんねえってこともありますが、自分なりに、ずっと考えています。

戦争が終わったとき、僕はとても落胆しましたが、思い返せば軍国主義だけはよく学んだけれど、それ以外のことは学んでこなかったじゃないかと思い、本を読みました。『新約聖書』も読んだし、マルクスの『資本論』も古典経済学のアダム・スミスも、自分なりの読み分けができるまで読みました。これから自分は何を警戒し、何を戒めとしたらいいのか。読みながらそれを考え続けました。

そして考えたことの中に、レーニンとスターリンの対決で結末がついた問題もありました。切実な私事と公、どちらを選ぶべきか、という問題です。

レーニンは、ロシアに本当の意味でマルクス主義の社会が成立するなら、その時は共産党は解散しようと『国家と革命』の中で言っています。共産主義の相互扶助、それが成就したら党を解散しようというのがレーニンの考えでした。そして年をとったレーニンが病に伏し、妻が看病しますが、スターリンはレーニンに対し、おまえの妻は党の公事をないがしろにしていると批判します。そこから二人の対決が始まります。

家族の看病や家族の死といった切実な私事と、公の職務が重なってしまったとき、どっちを選択することが正しいのか。東洋的、スターリン的マルクス主義者であれば公を選ぶのが正しいというでしょう。ところがマルクスは、そうではないことを示しています。

マルクスは、唯物論でなんでも白黒つけちまえという論者たちとは異なり、肉親が死んだときの寂しさ、闘病のつらさといった切実なことは、公の利益のよさといったことと別のものだということを「芸術論」で言っています。この「私」をとるのがマルクス思想の本流であり、それは比較や善悪の問題でもなく人間の問題なんだ、というのがレーニンの立場です。真理に近いのはどっちだ、ぎりぎりの時にどっちを選ぶんだとなれば、レーニンの立場を選ばざるを得ないでしょう。

日本でこれと似た問題提起をした人物といえば、親鸞がいます。弟子から「死んだら極楽浄土に行くそうですが、私は少しも極楽浄土に行きたいと思えないのです」と打ち明けられ、親鸞は「現実社会というものは煩悩のふるさとだから、ふるさとを離れがたいのと同じように人間は煩悩から離れられないものなのだ」と答え、オレもおまえと同じだと伝えます。

しかし親鸞は「人間には往(い)きと還(かえ)りがある」と言っています。「往き」の時には、道ばたに病気や貧乏で困っている人がいても、自分のなすべきことをするために歩みを進めればいい。しかしそれを終えて帰ってくる「還り」には、どんな種類の問題でも、すべてを包括して処理して生きるべきだと。悪でも何でも、全部含めて救済するために頑張るんだと。

この考え方にはあいまいさがありません。かわいそうだから助ける、あれは違うから助けない、といったことではなく「還り」は全部、助ける。しきりがはっきりしているのが親鸞の考え方です。(談)

◇新約聖書(文春新書、1・2とも千円)など◇資本論(岩波文庫など)◇国家と革命(ちくま学芸文庫、品切れ中)