まだまだけつがあおいごぼはん

はじめに


京都駅のすぐ近くにある東本願寺より、親鸞さんの750年忌に屏風絵を制作してほしい、というご依頼を受けたのが2010年。確か仙台での「最後のマンガ展」の会場でのことだったと記憶している。以来、その都度頭に去来することをちょこちょことメモ帳に残していた。この仕事のことに限らず、実は2010年は生まれて初めて1年間、日記を付けた年だった。たまたま思うことを書き留める癖がついていた。

この仕事は僕にとっては過去最大の難関と言えるものだったから、悩みや迷いにとらわれそうになることもしばしば。そんなときに頭に浮かぶ思いを言葉にしてしたためることは、それらを相対化し客観的にながめることに一定の効果があった。自分と思考を切り離し、内側の平穏を保つことの一助になった。

それをこの際ここに晒し、自分の等身大を知っていただくことになったらと思う。
等身大であり続けることが、この仕事で自分が貫くべきことだったから。

メモ書きだったので日付が残っておらず、確実に分かるもの以外はX月X日としています。


井上雄彦
04/04/2011

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屏風日記
~ボーズの漫画家が屏風に坊主の絵を描くということ~

X月X日

このような場に立って漫画家に何ができるのか

それは、確かに800年前にこの日本に生きた親鸞さんを
人間として、絵ではあっても命を持った人間としてここに存在させること。
もはやそれは親鸞さんではないかもしれないが、できるだけそこに迫りたい。

瞳の奥へと進んでいったときにそこに広がる何か。
それは親鸞さんと今の時代に生きる我々と、共有しているはずの何か。
知識や教養のあるなし、老若男女にかかわらず、普遍のもの。
そこに迫ることが目標。
それを可能にするためにやることは、
その普遍の何かそのものの働きにゆだねきること。

宗教家でも思想家でも日本画家でもない、
自分は漫画家である。
動きだし、しゃべりだしそうな人間を描くこと以外にできることはない。



X月X日

11月、報恩講のとき、初めて東本願寺にあがらせていただいて見学させていただいた。
そのとき、足がしびれて立てなく、いや立ったものの脚が生まれたばかりの子鹿のようによろよろ、前に進もうとするも脚はついてこない。
ぐきと足の甲が変な方に曲がって両手をついた。

お行儀よくしなきゃと慣れない正座を、
格好をつけようとしたからだ。

格好つけるなと
お行儀よくなんてするなと

それから、全く教養も知識もない自分に何が描けるのか
という疑問、これはとんでもない量の本を、資料を急いで読み
いそいで全国各地にある親鸞さんの足跡をたどらねばならんのでは
という焦り
いや我ながらもっともな焦りではある。あるが。

そんな焦りに対して

どこへ行く?と

足もとを見よ

今から浅はかな知識を得ようと躍起になったところで
身になるはずもなく、ただメッキを貼る行為に等しいと。

勉強はすべき。ただ本質を見失わないように。
自分の足もとにもう答えがあるはず。

それと、人間全体を貫くもの、
自分が、自分の力で何か大きなことをやってやろうとする心でなく
自分の体の内側にある理、やわらかな水のようなもの、
そのようなものにゆだねよと。

そう言われて足に杭を打たれたような気がした。

正座して足がしびれてケガしただけのくせによくもそこまで。
でもそう感じたのは確かだ。


後日接骨院に行き、よく骨折してしまうケースですと言われ、自分は骨が折れてはいなかったので幸運であったと思いました。

同時にやはりどんな自分であろうと、今、描きなさいと言われているのだと思った。
今、描けるのだと。

転んでもただでは起きぬ。



X月X日

水墨画家の方の制作風景の映像を仕事の参考にといただき、今見ている。

お寺の天井画。
巨大。
3年かけてその巨大な天井画を、体育館を使って製作。
畳180枚分。

板に貼った和紙の上に乗って描いておられる。
中国産の最上の墨をごりごりと摺って使っておられる。


こちらの屏風のサイズはそれよりははるかに小さいが、残された時間は少ない。

自分に3年の製作期間はないが、大衆娯楽の漫画を描いてきたこれまでの22年間がある。

やることは変わらない。

人間を描く。

恐れを捨てよう。

これは親鸞ではない、と言われたら、そりゃそうだ。だって見たことないんだもの。
親鸞を聖なる存在、神(?)とあがめる人には冒涜のそしりを受けるかもしれない。
仕方ない。
僕は神を見たことはないし、親鸞さんは確かに存在した人間。

自分の内側に広がる、普遍を信じて、ゆだねる。
それが他力というものと思ってる。
僕の信じるものもたまたま似ているかもしれない、それを理と呼んでる。
邪魔をしないこと。
理の邪魔をしない。理に誤りはない。


今の自分に描けるもの、自分にできることは限られている。
悟りきった親鸞?
奥深い世界観?
今このときに依頼され描くことになった必然がある。
自分の我、それもまた今を移す鏡。

あとは楽しめ
自分の絵が東本願寺に納められるなんて、こんなとんでもないこと、想像したこともない。
わくわくする。
漫画家ですよ僕。

いいか悪いか、今の人が何と言おうが、揺らぐ事なかれ。

750年、800年以上にわたる縦糸と60億人の横糸。

人間の、そのつながりを、信じるのみ。



X月X日

わからん
全然わからん

親鸞が分からん
屏風が分からん
何を求められているかが分からん
何を求めているかが分からん

これだこれでいこうと思う
そのあと白い12枚の板に向かい
やっぱり足りない何かがと引き下がる
どれだけそれを繰り返す

分からんのは百も承知
分かるはずがない

もっともらしく格好をつけようとするから動けなくなるのだ
分からんもんは分からん
最悪なのは
そのことをかくして格好つけること
隠したままにすること
そうしてできたものには何もない



X月X日

何を描くか決まった。
螺旋のように振り出しに戻り、でもディテールは濃くなった。
これで行く。
ありがとうございます。
やはり足元に答はあって、でも探し回って気付くものだった。
動かずにいたら、このことを身をもって知ることはできなかった。

さあ、最善の道にたどり着いた。
休まず歩くだけだ。
このあとは何と言われようと構わん。
自分のちっぽけな我と、奥にある大きな本質、今その中心は重なっている。
それ以外は瑣末なことである。



X月X日

あらためて、
「今、いのちがあなたを生きている」
というコピーの秀逸さに感じ入り、救われ、確信を得る。


X月X日

今、命があなたを生きている

それが本当なら、僕の命はかつて親鸞さんを生きていた命と同じもの。
僕と親鸞さん、それからこの絵が完成したときこれを見る人たち、それぞれの命の間に隔たりはない。

それだけを信じて描きあげることができるなら、間違えない。



X月X日

夜中の一人の作業中、泥の川を歩く民衆の苦悩の表情を描きながら、涙が出た。
人生の側面のひとつ、光と影の影に分類されるようなことも、これを描く為にいろんなことがあったんだと気がついた。
この人達の顔を描くために。寄り添える自分であるために。

感謝したい感情がぶわっとこみあげる。

人生はつながってる。
縦も横も。

苦悶の顔でも存在は光。
苦難は夢。人生という名の、一夜の夢。

泥の川を進むきれいな魂。どうかそうであってほしい。

X月X日

絵を描きながら肌に刺さるようにひしひしと感じていたこと。

きっと自分を助けてくれている人がたくさんいる。

いろんなことを教えてくれている。

自分の周りに。たとえば直接は関わらなくても。

この世にもういなくても。

ありがとう。




X月X日

大きい絵を描くという行為は
自分をさらけ出す行為に等しい
逃げやごまかしやかっこつけは通用しない
小さな子供に瞳を覗き込まれたときのような

自分の本質は何か
相手の本質は何か

もともとそこにある美
それをたださしだすだけ

X月X日

やるど!と思うたびに、あ、違った、やらせていただきます。に変える。
中心を合わせることが自分のやること。
描くのは自分ではない。

3月8日

上手に描こうとすると手が止まる
慎重になる

すると何もったいつけてる
はよ描かんかいとどやされるような声がする

どんな目なんだ
ほうそんな目か


感謝

絵描き冥利

しびれる状況、屏風を描く
夜中ただひとり

絵描きと生まれた幸せをかみしめていたとき
あ、今だ
今なら描けると思った

身構えずに親鸞の顔に筆を入れた

描いてる間なおも頭の中に言葉が浮かんでくる
自分が自分を否定する言葉
この世の人々が自分を否定する言葉
それをわきにどけることができたのは

とっとと描かんかい
もったいつけるな

そういう、思いなのか声なのか
それにけしかけられたから

この機会に浴することができる幸運に感謝

3月9日

明朝搬出
それもさんざん延ばして

待ったナシの状況に至って
自分の描いた絵が、自分の力不足が目について無性にはらたってきた。

これはガシュウ
我執が不安になって暴れている
もっといいのがかけるんだ
時間がない
経験が足りない
描いてるときはひとりにしてくれ
ほんとはうまく描ける
この絵はそうじゃない(気がする)
誰かのせい
何かのせい

。。。


不安が暴れている
デッサンの狂いや
さまざまな瑕疵は現実に見えている
自分の優秀さが疑われるじゃないかと我執が言う
馬鹿にされるじゃないかと
恥をかくじゃないかと

いいんだそれで
優秀だと言われるためじゃない
いいたい人には言わせりゃいい
ルール等知らん
自分のルールで書いた
やることはただ、そこにそのひとをあらしめること
こんな人だったのかもと
そうでなくたっていい
自分なりの真実があれば
それは奥の方で誰かにつながっている

あと少しまで来た
たのしい
こんなたのしいことはない
自分しかこの絵を完成させられない
もっともっと良くしてあげられる
それができるのは自分だけ

我執の協力を求む
時間はわずか
こんなときがんばる力をくれるのは我執

うまい絵はいらない
心に届く絵を

絵に手を入れていこう
絵の中から答えは浮かび上がってくる
不器用な建て増し工事だったってかまわん
ぶっちゃけはじめてなんだから

旅はあと少しで終わる
親鸞さんとまた対話しにいこう





報恩講のお斎の席で、目の前にいたお婆さんたちの表情を見て、
親鸞聖人はすばらしい
でもあなたもすばらしい
と思った。
あれが出発点であり、ゴールだった。

3月10日

搬出完了。
今、ゴールしたのかもしれないが、何かのスタート台に立ってる気もする。

とにかく寝よう。バケツを洗うのは明日でいいか・・。
ありがとうございました。