●追悼と顕彰は別のもの 松村由利子 歌人
8月は鎮魂の月である。無念の死を遂げた兵士はもちろん、さまざまな形で戦争の犠牲になった人々を思い、平和への祈りを新たにしたい。
本書は、自らの信仰を貫いて死んだ殉教者と、自国のために死んだ戦死者との相似点から、死者をたたえる行為の危うさに迫ったシンポジウムの記録だ。出席者は、「国家と犠牲」「靖国問題」などの著書で知られる哲学者の高橋哲哉、真宗大谷派僧侶の菱木政晴、カトリック司教の森一弘らである。
2008年11月、長崎で、188人の殉教者を新たに聖者の称号の一つ、福者とする「列福式」が執り行われた。シンポジウムでは、教団や国家が死を評価、意味づけし、顕彰するという意味では、殉教も殉国も構造的に似ているというところから問題提起された。
日本の宗教者たちは、かつて戦争協力した苦い過去を持つ。太平洋戦争中、カトリック教会は「国民総決起運動」に協力し、司教らを伊勢神宮や靖国神社に参拝させた。プロテスタント教会の設立した日本基督(キリスト)教団は、キリストが十字架上で流した血と英霊の血を重ね、「基督教は血の意義を最も深く自覚した宗教」と戦争を全面的に肯定した。仏教者もまた神社参拝を行い、日本の仏教徒にとって「天皇陛下万歳」は「南無阿弥陀仏」だと説いた。
シンポジウムで高橋は、これらの事実を踏まえ、祖国のために死ぬことが宗教的な殉教と同一視されるのは、中世から第1次世界大戦までのヨーロッパでも見られる現象であり、決して日本だけの特殊な状況ではなかったと指摘する。
菱木は、英国のウェストミンスター寺院の無名戦士の墓碑などには、再び戦争をしないことを誓うのでなく、死者を模範として後に続けと言わんばかりの賛辞が書かれている事実を紹介。死者に対する感情は悲しみや悔いであるべきで、ほめるという態度は問題ではないかと述べる。
森は迫害されてきたユダヤの民にとって、民族の伝統的な信仰を守る殉教は尊い行為だったが、キリストはそうしたユダヤ教の排他的な価値観を否定し、「愛」を説いたと解説。「殉国も殉教もない世界の実現」こそキリスト教が目指すところではないかと話す。
追悼と顕彰は、全く別のものである。いつの時代にも、死者を賛美するのは、それを利用したい力なのだと思わされる。
=2010/08/16付 西日本新聞朝刊=